日吉神社について

社務所からの眺め(出雲体育館方面)


御由緒

 中世の頃、現在地(今市町1765番地)より北東へ約500メートルの辺りに「光雲山仏性寺」という天台宗と真言宗とを兼ねた大寺院があり、それにより山王権現がこの地に勧請されたと推察されます。

 宝徳元年(1449年)に仏性寺が全焼するという大火がおこり、同年に再建された本町恵比寿社の棟札に「宝徳元年山王社主金本土佐」と書かれていることから、山王社は15世紀の中頃には、すでに鎮座していた事がわかっています。

その後、永禄12年(1569年)山中幸盛が尼子勝久を擁して再挙を図った時の毛利軍との戦いにより、今市の町は兵火に遭い、山王社も焼失したと思われますが、記録は残されていません。

 今市の町の発展とともに、人家も増え密集してくると、境内が汚れ社殿も火災のおそれが出てきたため、安永3年(1774年)町内の伊藤善五郎(運送業)氏により所有地が寄進され、氏子一同が相談してその地に社殿を造営して奉遷されました。これが現在の社地となっています。

 明治4年に日吉神社と改称、村社に列せられました。社殿は1909年(明治42年)に焼け、1913年(大正2年)に新築されたのが現在社で、一町一社の氏神様として町民の信仰が厚く、現在でも「山王さん」と呼ばれ、親しまれています。 

大正2年正遷宮記念に発行された絵葉書(広報「山王さん」平成10年7月号より)


主祭神

大己貴神
(オオナムチノカミ)

 大己貴神(オオナムチ)は古事記においては大国主(オオクニヌシ)の若年時の名前とされており、他にも大穴持命(オオアナモチ)、大汝命(オホナムチ)、大名持神(オオナモチ)、国作大己貴命(クニツクリオホナムチ)、八千矛神(ヤチホコ)、葦原醜男(アシハラシコヲ)など別名多数です。オオナムチの「オオ」は「大」。「ナ」は「土地」。ムチは「高貴な人」という意味とされています。



大己貴神⇒大国主神

 古事記の中で、須佐之男命より数々の試練を与えらえていた大己貴神が、須佐之男命が眠っている間に髪の毛を垂木に結び付け、須勢理毘売を背負って逃げようとした時、琴が木に触れ、大地が鳴動して須佐之男命は、目を覚ましてしまいましたが、髪が結び付けられていた為、ほどいている間に大己貴神は遠くへ逃げていきました。

 やっとのことで髪をほどいた須佐之男命は、大己貴神を追って黄泉平坂まで来ましたが、そこで追いかけるのをやめて、遠くに逃げる大己貴神に向かって、『お前が持っている生太刀と生弓矢で、腹違いの兄弟の神を坂の裾に追い伏し、河の瀬に追い払え。そして、お前自身は大国主神となり、宇都志国玉神となって、我が娘須勢理毘売を正妻とし、宇迦の山の麓で大磐石の上に宮柱を太く立てて、高天原に届くほど千木を高く上げて住め。』と仰られたと記されています。

大山咋神
(オオヤマクイノカミ)

 名前の「クイ」は杭のことであり、大山に杭を打つ神、つまり大きな山を治める神を意味するとされいます。又、山の地主神であり農耕(治水)を司るだけでなく、酒の神としても、酒造関係者の信仰を集めています。

 『古事記』において、近江国の日枝山(比叡山)および葛野(京都)の松尾に鎮座し、鳴鏑を御神体とすると記されています。



鳴鏑

 木や角,青銅などで蕪(かぶら)の形にし、内部を空洞にして周囲に数個の小孔あけて発射すると事により、内部に風が通り、音が発せられる。

 古事記では、大己貴神が須勢理毘売と恋に落ちた事を知った須佐之男命が、試練として大己貴神に対し、大野の中に射込まれた鳴鏑の矢を拾って来ることを命じ、野原に入るとすぐに火を放たれが、鼠によって救われ、無事 須佐之男命に矢を渡す場面が描かれています。

           大国主                        鏑矢

 比叡山東麓にあり、全国三千八〇〇余社ある日吉(日枝)神社、山王社の総本宮である日吉大社において、本来は日枝山の地主神である大山咋神をお祀りしていましたが、天智天皇が大津京に遷都した際、大和の地主神であった大己貴神を勧請して大比叡山王として西本宮(大宮)にお祀りし、大山咋神は小比叡山王として東本宮(二宮)にお祀りされています。

御神紋

亀甲に三宝珠

(京刺繍)


 亀甲紋は出雲地方の神社に多く用いられています。古来より長寿のシンボルとして尊ばれ、易学においては「玄武」として北方を鎮護する霊獣として尊重されていた亀の甲羅の模様を文様化したものとされています。又、出雲大社の御神紋が亀甲紋になっているのは、海蛇の尾に浮かぶ亀甲模様をかたどったとも言われています。


奉納和歌

正遷宮記念奉納和歌

 

大正2年(1913年)の正遷宮を記念して、当町の医家、小林仁哉氏が奉祝の和歌を募られたところ、地元はもとより全国各地から多数の応募作品が寄せられました。その中から選ばれた五十五首の作品は一首ごとに大型の短冊にし、横幅五メートル余の大きな額縁に貼られて、拝殿内に奉納掲額されています。

 もともと額縁内の短冊は五十六首であり、下の歌題ごとにまとめて貼られていたと思われますが、修理か何かの折にばらばらになり、当初のの順番が不明となった為、現状は無秩序に並べられている様です。(日吉神社大正二年遷宮記念奉納和歌集 平成20年8月発行より)


・寄神祝(かみいわいによす)

・松残雪(まつのざんせつ)

・湊夕立(みなとのゆうだち)

・菊帯霜(きくしもをおびる)

・浦千鳥(うらちどり) 


 其々の代表的な歌を五首と北島齋孝(きたじまなりのり:北島家七十七代、出雲大社権宮司、神道出雲教長、貴族院議員を務める。)氏の和歌を下にご紹介しております。



 拝殿内に掲額された和歌の数々は達筆のくずし字で書かれている為、当時の人ならともかく、現代の人には容易に読み解くことはできないため、平成二十年八月に正遷宮十周年記念行事の一つとして、古文書研究家の来間仁一氏に解読をお願いして、「日吉神社大正二年遷宮記念奉納和歌集」が発刊されております。

遷宮記念奉納和歌集


扁額

 拝殿内扁額

 

正二位伯爵 東久世 通禧(ひがしくぜ みちとみ:神奈川府知事、開拓使長官、侍従長などを歴任し、後に元老院副議長、貴族院副議長、枢密院副議長等を務める。)氏に揮毫頂いた扁額。

 

 明治42年に社殿が火災により焼失した為、大正2年の再建、正遷宮へ向けて尽力されていた総代の遠藤嘉右衛門(八代)氏が、その最中の明治44年に貴族院議員に選出されました。これにより、この時枢密院副議長の職にあった東久世通禧伯爵との接点が生まれ、揮毫をお願いしたのだと思われます。(広報「山王さん」平成22年8月号より) 

拝殿扁額

 

従三位男爵 北島全孝(きたじまたけのり:出雲国造第75世、御杖代、通称 神 健彦)氏に揮毫頂いた扁額。


 明治時代、出雲大社における神代から続く祭事を掌る上での大変遷の時期に活躍され、昭和43年の島根県明治百年記念事業においては、島根百傑の一人として選ばれています。

 書画や国学に通じ、歌人としても名高く、下にご紹介した歌以外にも、優れた多くの歌を詠まれています。



大面

 番内

 

神幸祭では、数え歳で四十二の厄年を迎えた男性が番内に扮し、青竹の先端をささら状にして町を練り歩き、「悪魔払い」・「家運隆昌」等と大声で叫びながら、その青竹で氏子たちの玄関前の地面を叩いて、邪気を祓います。