「山王祭と私」
平野 勲
漫画界のすべてにいっさい背を向けて、「日本の祭り」のみを描きはじめて四十年近くなる。描いてきた祭りの作品も三千五百点近くになった。「どうしてお祭りだけを描きはじめたか?」といままで誰彼となくよく聞かれた言葉である。
小さいときから祭りが好きだったこともあるが、上京した当時、まだ幼かった子供たちに、夜の昔語りに少年時代の祭りを―神輿、花火、夜店のアセチレンガス灯、タコの風船、焼いか、天狗の面など―思い出せるままに話してやった。
しかし、いまの子供たちは祭りを知らない。果たして子供たちはどこまで祭りの様子が理解できるのか、少々心配でもあった。
小さいときのアルバムにも祭りの写真はないので、絵に描いて見せてやれば具体的なイメージを思い浮かべることができるだろうと、「縁日」の絵を描いてみた。
これが祭りを描きはじめた動機といえるが、漫画の投稿時代の友人三人で渋谷の道玄坂にある風月堂の喫茶店で作品展を開き、その祭りの作品を出品したら好評だったので、いつのまにか「祭り」の世界に入ったようだ。
この祭り第一号の作品が、昭和四十八年に日本漫画家協会から発刊された「日本漫画年鑑」の表紙に使われたことも嬉しかった。
昭和三十六年の春、漫画家になろうと教職を辞し、三十八歳で妻子と共に上京した。「とうとう上京したか、あれほど反対したのに」と先輩を訪ねた時、初対面で叱られて、「その年齢で今更基礎的な勉強でもあるまい。実用的なものを勉強しろ。そしてキミだけのものを手土産にして漫画界に入ってこい」と言われた。
「キミでなければ描けないものを持って」と言われたが、私にそのようなものが持てるだろうか。苦しくても自分で探し出すほかに道はない。ほんとうに苦しかった。
そんな時、幼かった二人の娘に夜の昔語りから「祭り」に出会った。ふるさと出雲の少年時代の祭り「山王祭」であった。私のライフワークを教えてくれた「山王祭」である。九月中旬の今市祭りである。
今市祭りは、日吉神社(さんのさん)を中心にたくさんの縁日屋台が所狭しと並び、綿菓子、饅頭、風船、金魚すくい、面、線香花火など、夜のアセチレン灯の匂いと共に、たまらなくお祭りの郷愁を誘う。
祭りの十四日は学校は午前中、十五日は休みであった。九月中旬で雨の日が多かったが、雨の日の祭りも今は懐かしく思い出される。祭りは私たちにとってこの上なく楽しいものであった。現在のように自動車は通らないし、私たちは安心して右往左往して祭りを楽しんだものである。
全国の祭りを訪ねて描いているが、私はいつも縁日などで、遠い日のふるさとの祭りの「さんのさん」を描いているのである。
*昭和二十八年の遷宮まで、例大祭・今市祭りは九月十四日、十五日の両日行われていました。
プロフィール
平野 勲(ひらの いさお )
1923年(大正12年)5月30日~2010年(平成22年)10月7日
今市町出身の漫画家
平成八年 出雲市文化功労賞受賞
平成十三年 出雲市特別功賞受賞
所属 「日本漫画家協会」
「日本の旅ペンクラブ」
「日本作家クラブ」
著書 「日本のお祭り」1980年
「絵本日本の祭り」1980年
「ふるさと山陰の祭り」
「遠い日の遊び」
「山王さん」平成16年8月号に御寄稿頂いたものを転載しております。
平成18年2月 石橋正吉氏より奉納頂いた平野勲氏の作品 「今市の祭り」
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