拝殿の扁額について
日吉神社拝殿に、「日吉社」と刻字され、金箔の施された一際目をひく扁額がかかげられています。この扁額は、その署名から正二位伯爵東久世通禧氏に揮毫頂いたものである事が判ります。
東久世通禧(ひがしくぜみちとみ)伯爵は、幕末の朝廷で少壮の公家として、尊王攘夷を唱えて活躍した人物です。文久3年8月18日の政変により、朝廷の実権が尊王攘夷派から公武合体派に移った為、長州藩の警護の元、三条実美、壬生基修らとともに西下した、世に言う「七卿落ち」の一人であり、その後の王政復古により帰洛し、外国事務総督、神奈川府知事、開拓使長官、侍従長などを歴任、明治4年には理事官として岩倉遣外使節団に随行し、見聞を広めた後、元老院副議長、枢密顧問官、貴族院副議長をつとめられた明治史に残る大人物です。
日吉神社とのかかわりについては、明治42年に社殿が火災により焼失した為、大正2年の再建、正遷宮に向けて尽力されていた総代、遠藤嘉右衛門(八代)氏が、その最中の明治44年に貴族院議員に当選されました。この時、東久世通禧伯爵は、枢密院副議長の職にあり、二人の接点が生まれたと考えられます。
扁額の新調の為、その揮毫を誰に依頼するかを考えていたであろう遠藤嘉右衛門氏が、有識故實に精しく兼ねて詩歌文章をよくし、本来その家格が子爵相当でありながら、その功が考慮され伯爵とされるほ程、活躍していた伯爵にお願いしたであろうと考えるのが自然ではないかと思われます。
矢田耕作氏(今市町行幸町)談
「山王さん」平成22年8月号より転載しております。
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