粟島神社
平成29年より始められた日吉神社松尾社祭は、出雲市小境町に鎮座する佐香神社(松尾神社)の祭礼に合わせて執り行われています。
その松尾神社に大山咋神とともに祀られているす久斯之神(少名彦神)は、国造りの協力神、医薬の神などとして知られていますが、酒造りの技術を広めたり、神功皇后が角鹿より還った応神天皇を迎えたときの歌に「少名御神」の名で登場することから、酒造の神としても知られています。
「此の御酒は 吾が御酒ならず 神酒の司 常世に坐す いはたたす 少名御神の豊寿き 寿き廻ほし 神寿し 寿き狂ほし 奉り来し御酒そ あさず飲せ ささ」
大国主神が出雲の御大之御前(美保岬)散策していると、飛沫立つ波頭を伝い、天の羅摩船に乗り鷦鷯(ミソサザイ)の羽を身にまとってやって来るとても小さな神様がいました。
大国主神は名を訊ねましたが、答えてくれません。その場にいた他の神々にもその神様のことを尋ねましたが、誰もその小さな神様のことを知りませんでした。
そこで、近くにいた蟾蜍(ヒキガエル)が、「この神様については、久延毘古(カカシ)なら知っているでしょう」と言ったので、久延毘古を呼んで訊いたところ、「この神様は神産巣日神の子、少彦名神です」と大国主神に答えました。
そこで、大国主は神産巣日神の元を訪ね、お訊ねすると、「確かにこの神は私の手のひらの指の間から零れ落ちて生まれた子どもです。」、「これから、あなたたちは兄弟となり、葦原中国をおさめなさい」と仰っいました。
そこで、二人は力を合わせて国中をまわり、稲や粟の栽培方法や鳥獣や昆虫の害から穀物を守る為の呪術の法等を定めて、国づくりを進めました。
大国主神と国づくりという大事業を行う事となった少彦名神は体がとても小さく、力はありませんでしたが、豊富な知識と持ち前の明るい性格で大国主神を大いに助け、多くの仕事をこなしました。
その後、粟島に渡り、役目を終えたと感じた少彦名神は実った粟の穂に乗り、その実が弾ける勢いで常世の国に帰ったと言われています。
現在は陸続きとなっている粟島
粟島神社由緒板
八百比丘尼の伝説や米子の地名発祥の地としても知られる
階段を昇りきった頂上に社殿が有ります。
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