稲荷神社
日吉神社境内には、御本殿東側に鮮やかな朱色の鳥居を構えた社があります。この社は、宇迦之御魂神を祀る稲荷神社です。
この稲荷神社は、棟札によると松平出羽守直政公により、現在の今市町御茶屋町付近に建立され、明治8年廃藩により、遠藤嘉右衛門氏によって日吉神社境内に遷座されたようです。
松平直政公は、堀尾、京極のあと、出雲国・隠岐国を領有した出雲國松江藩初代藩主です。結城秀康の三男として生まれ、徳川第三代将軍・徳川家光の従兄弟になります。
とても勇猛な人物で有った様で、14歳の時「大阪冬の陣」で初陣を迎え、その勇敢に攻め込む姿を真田幸村(信繁)が敵方ながらも讃えて、自らの軍扇を投げ与えたとされており、現在、その軍扇は松江城内に展示されています。
寛永15年2月11日、信濃松本藩7万石より出雲松江藩18万6千石に加増移封されたことにより、信州から出雲に蕎麦の文化と技術が伝わるきっかけとなったと云われています。
その他、落語で有名な「目黒のさんま」のモデルであるとも云われています。
とても信仰心の厚い方であったようで、直政公が松江城に入城した際、城内には元々八幡社がありましたが、夢のお告げにより、更に藩の守護神として稲荷神社を勧請したのが今の城山稲荷神社の始まりだそうです。
又、日御碕神社の現社殿は、京極忠高が始めた「日御碕の天下普請」を、忠高が途中で病死した後、直政公が自ら率先して普請を引き継ぎ、完成させました。
一方で、領内のキリシタンを厳しく弾圧したり。寛文7年の出雲大社造営にあたっては、神仏分離的な施策によって、境内より仏教色を一掃した為、かなりの寺院を廃寺に追いこむなど、厳しい部分もあったようです。
その他、直政公に関する逸話で「雲陽秘事記」に拠ると、直政公が出雲大社に参詣した折、国造の制止を聞かずに無理やり本殿内に入って御神体の姿を見ると、それは九穴の鮑で、突然巨大な蛇に変化し、それを見た直政公は、畏れて逃げ出したとの事です。
前述した内容から、とても信仰心の厚い直政公が御神体に対し、その様な事をするとは考えにくいのですが、兎にも角にも出雲地方の歴史や文化を語る上で欠かせない人物であることは間違いないと思います。
直正公は、出雲松江藩に移封された後、領内に藩主の休憩や宿泊のための施設「御茶屋」を今市、安来、玉湯等9カ所に改築・設置しました。
信仰心の厚かった直政公は、松江城内の城山稲荷神社はもとより、武蔵国の下屋敷内にも杵築大社と稲荷神社を創建していることから、おそらくその鎮守として特に信仰の厚かった稲荷神社を御茶屋に勧請したのではないかと思われます。
稲荷神社(日吉神社経境内社)
玉造御茶屋跡と玉作湯神社内の稲荷神社
平田市御茶屋町の現在の風景と宇美神社内の稲荷神社
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